一木喜德郎
一木喜德郎男爵(日语:/[2][3],1867年5月7日—1944年12月17日),是日本大正与昭和时期的法学家、政治家。他毕业于帝国大学并在该校法学部任教授,著名的天皇机关说理论学者美浓部达吉曾是他的学生[4]。其后他于1914年出任第二次大隈内阁的文部大臣和内务大臣[5],1925年至1936年期间担任宫内大臣、枢密院议长等职[6][7],并作为宫中重臣辅佐年轻的昭和天皇[8]。他在二二六事件后辞去职务,转任大日本報徳社社长,1944年12月17日,他病逝于东京府自宅,享年78岁[9]。
一木喜德郎 | |
---|---|
内大臣 (临时代理) | |
任期 1936年2月26日—1936年3月6日 | |
君主 | 昭和天皇 |
前任 | 斋藤实 |
继任 | 湯浅倉平 |
枢密院议长 | |
任期 1934年5月3日—1936年3月13日 | |
君主 | 昭和天皇 |
前任 | 倉富勇三郎 |
继任 | 平沼骐一郎 |
宫内大臣 | |
任期 1925年3月30日—1933年2月14日 | |
君主 | 大正天皇 昭和天皇 |
前任 | 牧野伸显 |
继任 | 湯浅倉平 |
个人资料 | |
出生 | 大日本帝国 静冈县挂川市[1] | 1867年5月7日
逝世 | 1944年12月17日 大日本帝国 东京府 | (77歲)
国籍 | 大日本帝国 |
母校 | 帝国大学 |
职业 | 法学家 教育家 政治家 |
参考资料
- 上田正昭ほか監修, 三省堂編修所 , 编, , 三省堂: 1121, 2009
- 『平成新修旧華族家系大成』上巻、156頁。
- 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』97頁。
- 『一木先生回顧録』(河井彌八発行、1954年12月10日) P5 ~
- 『官報』第5174号、明治33年9月28日。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年、97頁。
- 『官報』第1526号、大正6年9月1日。
- 小田部雄次『華族』中央公論新社、2006年、363頁。
- 一木喜徳郎 元枢密院議長・区内大臣、死去『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p8 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
文献来源
- Conners, Leslie. The Emperor's Adviser: Saionji Kinmochi and Pre-War Japanese Politics. Routledge Kegan & Paul. ISBN 0-7099-3449-1
- Miller, Frank Owen. (1965). Minobe Tatsukichi: Interpreter Of Constitutionalism in Japan. Berkeley: University of California Press. OCLC 562979985 (页面存档备份,存于)
- Ozaki, Yukio. (2001). The Autobiography of Ozaki Yukio: The Struggle for Constitutional Government in Japan (translated by Fujiko Hara). (页面存档备份,存于) Princeton: Princeton University Press. ISBN 978-0-691-05095-9
外部链接
- . kotobank (日语).
- 一木 喜徳郎|根津育英会武蔵学園 (页面存档备份,存于)
- . 亞洲歷史資料中心 (日语).
- 大正期青年団における公徳心の修養--一木喜徳郎の自治構想を中心に (页面存档备份,存于), 稲永祐介, 慶應義塾福澤研究センター 近代日本研究 (22), 163-193, 2005
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.