後櫻町天皇
後櫻町天皇(日语:/ Go-Sakuramachi Tennō;1740年9月23日—1813年12月24日),日本第八位也是至現時為止最後一位女天皇。是櫻町天皇第二皇女,母親為女御二條舍子(青綺門院)。諱智子[註 1],幼名以茶宮,後改為緋宮。
智子 | |||||||||
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第117代天皇 | |||||||||
統治 | 1762年9月15日-1770年5月23日(7年250天) | ||||||||
前任 | 桃園天皇 | ||||||||
繼任 | 後桃園天皇 | ||||||||
出生 | 以茶宮(いさのみや) 緋宮(あけのみや) 元文五年八月三日(1740年9月23日) | ||||||||
逝世 | 文化十年閏十一月二日(1813年12月24日)(73歲) | ||||||||
安葬 | 月輪陵 | ||||||||
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王朝 | 日本皇室 | ||||||||
父親 | 櫻町天皇 | ||||||||
母親 | 藤原舍子 | ||||||||
簽名 | |||||||||
簡歷
櫻町天皇只有二女一子,其中長女盛子內親王夭折,皇子即後來的桃園天皇才22歲便過世,遺下一子英仁親王僅五歲,於是便由二十三歲的智子內親王於1762年登基為第117代天皇,1762年9月15日-1770年5月23日在位。
1770年(明和七年),後櫻町天皇退位,英仁親王繼位,是為後桃園天皇。但因為後桃園天皇尚幼,便由後櫻町上皇輔政。然而在1779年(安永八年),體弱多病且僅二十二歲的後桃園天皇崩御,生前只遺下一女欣子內親王。為此,皇室和朝廷決定迎年僅九歲的師仁王(閑院宮典仁親王第六王子)繼位,是為光格天皇,由於光格天皇是皇族旁系出身,因此為加強光格天皇本身的正統性,內定待欣子內親王成年後入宮為光格天皇之中宮。由於光格天皇年幼,因此仍由後櫻町上皇繼續輔政[1]。
後櫻町天皇是一位極有文采的天皇,畢生留下上千首的詩歌、日記四十一冊,以及一本名為「禁中年中之事」的著作。1813年過世,葬在京都府京都市東山區今熊野泉山町泉涌寺内的月輪陵。形式為石造九重塔。
世系圖
(114) 中御門天皇 | (115) 櫻町天皇 | (117) 後櫻町天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(116) 桃園天皇 | (118) 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(閑院宮)直仁親王 | 典仁親王(慶光院) | 美仁親王〔閑院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(119) 光格天皇 | (120) 仁孝天皇 | (121) 孝明天皇 | (122)明治天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鷹司輔平 | 和宮親子內親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
註腳
註釋
- 最初「智子」的訓讀為“さとこ”,但因與靈元天皇的名諱識仁(さとひと)音相近,故在即位後(宝暦12年7月29日,1762年9月17日)改為“としこ”。
來源
- 長坂良宏. . 吉川弘文館. 2018年2月20日: 148–155.
相關連結
- 宮内省図書寮 編『後桜町天皇実録』1 - 4巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 4-8433-2036-6
- 所 京子「後桜町女帝年譜稿 (页面存档备份,存于)」京都女子大学史学会『史窓』第58号 2001年2月 p353 - p363
- 所 京子「後桜町上皇年譜稿 (页面存档备份,存于)」『岐阜聖徳学園大学紀要 外国語学部編』第40集 2001年3月 p116 - p92
- 野村 玄「女帝後桜町天皇の践祚とその目的」吉川弘文館『日本歴史』2006年10月号 No.701 p69 - p84
後櫻町天皇 出生于:1740年9月23日逝世於:1813年12月24日 | ||
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前任: 桃園天皇 |
日本天皇 1762年9月15日-1770年5月23日 |
繼任: 後桃園天皇 |
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