林达夫
林达夫( 1896年11 月 20日-1984年4 月 25日)是日本的思想家和批评家,有许多关于西方精神史、文化史和文明史的著作。
林 達夫 | |
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出生 | 日本東京都 | 1896年11月20日
逝世 | 1984年4月25日 | (87歲)
學術背景 | |
母校 | 京都帝国大学 |
學術工作 | |
研究機構 | 明治大学 |
主要領域 | 思想史 |
生平
1896年,林达夫出生于日本东京,父亲曾登吉是一名外交官。林达夫从2岁到6岁期间随被派至日本驻西雅图领事馆的父亲在西雅图生活。1902年,林达夫返回日本。1904年,随着父亲被调到驻印度孟买领事馆,林达夫被托付给福井市的亲戚抚养。
1908年,林达夫父母回国。同年,林达夫转入福井县立师范学校附属小学,作为少见的“归国子女”,林达夫在学校受到霸凌。后转入京都市立锦林小学。1911年,进入京都府立第一中学(现京都府立落北高中附属中学),他热衷于戏剧和音乐,于1916年考入第一高等学校,就读于第一部丙類,同年退学。其在第一高等学校的同学包括以研究东方哲学而闻名的安冈正笃[注釈 1]和作家芹泽光治良[注釈 2]等。1919年,考入京都帝国大学文学部哲学科[1] 。师从西田幾多郎和深田康算,主修美学和艺术史。他的毕业论文是《希腊悲剧的起源》。大学好友包括三木清和谷川徹三等。
1922年3月毕业后,在1924年4月任东洋大学文化科教授[2] ,教授西方文化史。并兼任津田荣学宿(津田塾大學)讲师、法政大学预科英语讲师(1934年4月后为法政大学文学院、法国哲学和宗教学系讲师)。1928年2月至1929年4月,与三木清、羽仁五郎一起参与了《岩波講座 世界思潮》的编辑。在法政大学的同事有西方古典学者田中道太郎等。 1931年,苏联之友协会成立,林达夫任出版部长。1932年成立唯物主义研究会,他成为书记之一[注釈 3] 。
作为“百科全书派”学者,他特别擅长法语研究,他对岩波书店出版的法国古典文学研究译本的每一个误译都逐一指出、批判[注釈 4] 。
参考
- 交流は、回想「一高時代の友だち」(著作集 第6巻)、粕谷一希「知の形態について 安岡正篤と林達夫」、『対比列伝 戦後人物像を再構築する』(新潮社、1982年)に詳しい。
- DILETTANT UND KÜNSTLER(就任の辞に代ふ)
ある若い藝術家とある若いDILETTANTと
――かくれたる藝術家はゐるかも知れない。人知れず考へてゐる哲人もゐるかも知れない。しかしいま向陵の文壇の表層に立つて活動している人々を見るに、彼らの大部分はすべてこれDILETTANTの群ではないか。自分は一がいに彼らを排斥しやうとは思はない、ただ現在の向陵があまりにDILETTANTに富みすぎてゐる事實を慊らなく思ふのである。もつと本當に「人生」を深く生きてゐる藝術家が出づるにあらずんば、いまに向陵の文壇は根柢の淺い「あそび」の場處に化してしまふであらう。すぐれたるDILETTANTの存在はこれを妨げない。日本のANATOLE FRANCEやPIERRE LOTIの出づることは寧ろ望ましい。ただDILETTANTISMUSの流行が、ともすれば深く「人生」に根ざさない、浮薄なるKUNSTSPIELEREIに堕するのを自分は懼るのである。
――君の言ふことは正しい。自分たちのやつてゐることは、一つの「あそび」にすぎないであらう。事實自分たちはPARNASSUSの山に面白く遊んでゐればいゝのだ、EPICURASの庭に他愛もなく戯れてゐればいゝのだ、美しい花びら、琥珀色の酒、滑かな言葉、そしてわづかばかりの人生の断片………自分たちのやつてゐることはたしかに品のいゝ「あそび」にちがひない。そして自分はこの「あそび」を熱愛する。しかしそれは何もわがMAÎTREのやうな享楽主義(デイレツタンテイズム)をわが向陵の文壇に主張することではない。眞正の藝術家が出づれば自分はその前によろこんで路をあける者である。然るに君たちの仲間は何もしない。何事もしないからDILETTANTの群れは得たり賢しと飛び出す。その結果EPIGONENのわいわい連が一所になつて歌ひ出すのは知れてゐるではないか。
――自分たちの仲間は何故に歌はないのであらう。生の哀歌(エレギア)はないのか。この涙と痛苦の人生を深く眞實に生きんとするわが友よ、険しくはるけき荊棘の路を、躓き乍らよろけ乍らも雄々しく歩まんとするわが友よ。君たちの寂寥、君たちの悩みは凝つて、心からの哀歌となつてゐる筈である。それだのに何故それが聞えないのであらう。さうした友は一人もゐないのか………自分たちの仲間の少ないことは、ほんとに寂しい、悲しい――
――「芽生」の時、萌え出でたばかりの小さな雙葉は殆ど皆同じ形を示してゐるかも知れない。しかし「本質」の相異はいつかその幹に、その枝に、その花に、その實に著しき差別の烙印をつけずには置かないであらう。自分はあのRODINのL'HOMME QUI MARCHEのやうな足どりをもつて強く本道を歩む、まことの藝術家の姿を心から尊敬せずにはゐられない。自分の心願はかゝる姿を一人でも多く向陵に見出すことである。DILETTANTの多いのは、恐らく向陵の文壇の恥辱であらう。
――自分はすぐれたるDILETTANTの業績を輕蔑しない。眞の藝術家と稱する人々の中に、單なるGOÛTに支配されてあはれなる仕事しかしてゐない者を見出す時、自分は大いなる皮肉を感ずる。君たちの存在は自分たちにとつてたしかに一つの刺戟である………それにしても衰微せるこの向陵の文壇を救ふは我らの任務である。お互ひに眞劍に懸命に各々の爲事を努めて行かうではないか。その結果少しでも向陵の文壇の存在が無意義なものでないといふことが認められたならば、我らにとつてか程の悦びはない。――さう、GOETHEの詩に“DILETTANT UND KÜNSTLER„といふのがあつた。君はよんだか。
――まだない。一寸「詩集」を見せたまへ――
Blätter nach Natur gestammelt,
Sind sie endlich auch gesammelt,
Deuten wohl auf Kunst und Leben;
Aber ihr,im Künstlerkranze,
Jedes Blatt sei das Ganze,
Und belohnt ist euer Streben............
一九一八年二月 文藝部委員
松原久人 岡崎誠一 平岡好道 林達夫 芹澤光治良 - 同会の40人の発起人の一人に名を連ねたが、会の起動前の打ち合わせ会で、会の運営を既存の研究機関の延長に置こうとする戸坂潤らと林・羽仁五郎らが対立。林は幹事職に祭り上げられ、同会の中では中間読物程度の作文しか担当できなくなった。久野収との共著『思想のドラマトゥルギー』より
- 関根秀雄訳、ブリュンチエール『仏蘭西文学史序説』 岩波書店、1926。指摘を受け絶版、改訳され岩波文庫に収録。批判論考は『文藝復興』に収録。
- 京都帝国大学編 『京都帝国大学一覧 自大正8年至大正9年』 京都帝国大学、1920年 p.317
- 田之倉稔『林達夫 回想のイタリア旅行』イタリア書房、2008年 p.253
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