稻垣滿次郎
簡歷
稻垣於肥前国松浦郡平戶(現今的長崎縣平戸市)出身,父親為平戶藩同藩勘定奉行的天野勇衛。就讀藩立学校維新館、鹿兒島私学校後,1882年(明治15年)入讀東京大学文學部。翌年受東京大学明治十六年事件牽連,改為到英国劍橋大學岡維爾與凱斯學院留學,師從歷史學家約翰·羅伯特·西利。他又在大學裡創立日本人俱樂部,研究英国紳士的禮貌。他又曾經說服大學校董會,讓他在入學考試中得寬免希臘語考試。
畢業後,擔任學習院・高等商業学校的兼任講師。1891年有份創立東邦協会,進入外務省、赴暹羅(今泰國)擔任幹事長。1897年(明治30年)3月,他隨著日本駐暹羅公使館開館而出任駐辦公使、1903年(明治36年)則晉升為日本第一代駐暹羅特命全權公使。1907年(明治40年)調任為日本駐西班牙公使,翌年於西國首都馬德里病逝。
著作
- Japan and the Pacific and the Japanese View of the Eastern Question, 1890 (London: T. Fisher Unwin)
- 『貴族論』稲垣満次郎著、東京・稲垣満次郎、1891年(明治24年)第1冊 4月20日 鹿鳴館、第2冊 5月18日 伯爵会
- 『西比利亜鉄道論』稲垣満次郎著、東京・哲学書院、1891年(明治24年)8月初版、12月2版 (页面存档备份,存于)
- 『対外策』稲垣満次郎述、東京・博文堂、1891年(明治24年)10月
- 『商工業対外策』稲垣満次郎演説、大阪・図書出版会社、1892年(明治25年)2月
- 『対外策之岡山』稲垣満次郎演説、前川啓太郎筆記、岡山・前川啓太郎、1892年(明治25年)6月
- 『教育之大本』稲垣満次郎著、東京・哲学書院、1892年(明治25年)9月
- 『東方策結論艸案 上』稲垣満次郎著、東京・哲学書院、1892年(明治25年)9月
- 『南洋長征談』稲垣満次郎著、東京・安井秀真、1893年(明治26年)5月
- 『貴族論』稲垣満次郎著、東京・稲垣満次郎、1894年(明治27年)5月
- 『外交と外征』稲垣満次郎著、東京・民友社、1896年(明治29年)4月
參考資料
- 庄司潤一郎「戦後日本の地政学に関する一考察」<戦略研究学会>年報 戦略研究4、芙蓉書房出版、2006年、23頁。
- 『官報』第7627号、「叙任及辞令」1908年11月27日。
参考文献
- 頴原善徳「稲垣満次郎論—明治日本と太平洋・アメリカ」ヒストリア160、1998年
- Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan, by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, (Lulu Press (页面存档备份,存于), September 2004, ISBN 1411612566)
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