藤原廣嗣
生涯
生年不詳。掌握大權的藤原四兄弟相次亡故後,天平9年(737年),從從六位上昇叙從五位下。天平10年(738年),兼任大養德(大和)守。此外,叙爵以降,任式部少輔。但是,朝廷內反藤原氏勢力抬頭,因誹謗親族的理由,在同年左遷大宰少弐。
廣嗣對左遷不服,上書彈劾反藤原勢力的右衛士督吉備真備和僧正玄昉,認為兩人是天地災厄的元凶。
天平12年(740年),和弟綱手率領大宰府、隼人等共1萬餘的兵力在九州舉兵,但是,被大野東人的追討軍擊敗潰走,最後在肥前國松浦郡被捕,在唐津處刑(藤原廣嗣之亂)。
之後為了平息廣嗣的怨靈,在唐津創建祭祀廣嗣的鏡神社。新藥師寺的西隣鎮座的鏡神社是由此神社勸請而來。
参考文献
- 八木充「藤原広嗣の叛乱」『山口大学文学会志』11-2。
- 坂本太郎「藤原広嗣の乱とその史料」『古典と歴史』。
- 丸山二郎「藤原広嗣の乱と鎮西府」『歴史教育』3-5。
- 栄原永遠男「藤原広嗣の乱の展開過程」『太宰府古文化論叢』上巻。
- 柳雄太郎「広嗣の乱と勅符」直木孝次郎博士古稀記念『古代史論集』中巻。
- 横田健一「天平十二年藤原広嗣の乱の一考察」『白鳳天平の世界』。
- 竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」『古代の日本』3、九州。
- 北山茂夫「七四〇年の藤原広嗣の叛乱」『日本古代政治史の研究』。
- 利光三津夫「広嗣の乱の背景」『律令制の研究』。
- 木本好信「藤原広嗣の乱について」『奈良朝政治と皇位継承』。
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