永田洋子
永田洋子(日语:,1945年2月8日—2011年2月5日),日本联合赤军武装斗争事件领袖人物,日本左翼领导人。畢業於共立藥科大學藥學系(現慶應義塾大學藥學系),曾任慶應義塾大學附屬醫院藥劑師,後加入日本聯合赤軍,任聯合赤軍中央委員會副委員長,1970年代曾参与迫害和杀害10多名赤军“叛徒”和不服从者,1972年被捕,1982年以“反社会罪”被判处死刑,但一直未有执行。2011年因脑萎缩引发的器官衰竭死亡[1]。
日語寫法 | |
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假名 | |
平文式罗马字 |
注释
著書
- 十六の墓標 炎と死の青春(上下2巻、彩流社、1982年~1983年)
- 氷解 女の自立を求めて(講談社、1983年)
- 私生きてます 死刑判決と脳腫瘍を抱えて(彩流社、1986年)
- 愛と命の淵に 瀬戸内寂聴・永田洋子往復書簡(福武書店、1987年)
- 続十六の墓標 連合赤軍敗北から十七年(彩流社、1990年)
- 獄中からの手紙(彩流社、1993年)
参考文献
- 永田洋子『十六の墓標(上続)』(彩流社、1982年)
- 永田洋子『続十六の墓標』(彩流社、1990年)
- 永田洋子『獄中からの手紙』(彩流社、1993年)
- 坂口弘『あさま山荘1972(上)』(彩流社、1993年)
- 坂東國男『永田洋子さんへの手紙』(彩流社、1984年)
外部链接
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